Mag-log in足塚は神社から北に位置する山の中腹にある。今は山道を並んで歩いているが、律が一方的に喋っている状況だ。
「ねぇねぇ、鬼って本当にいると思う? 俺はね、いると思うんだよね! 各地に伝承が残っているし、史跡や遺物もある。漂着した外国人や疫病の擬人化だって言う人もいるけど、特徴は全国で一致してるし、伝達技術が発達してなかった大昔じゃそれって無理じゃない? だから鬼は実在していて、今もどこかにいるんじゃないかって思うんだよね! 優斗はどう思う?」
律はずっとこの調子で喋り通している。
優斗はと言えば、暑さと律のマシンガントークで辟易していた。神社から足塚までは結構な距離があるが、バスなんて通っていないから歩きだ。予想もしていなかった遠足に、何故こうなったと自問自答している。
今日は出かける用事もなく、気楽な休日だったからランニングシャツに半袖のパーカー、ハーフパンツにスニーカーと山歩きには不向きな格好で、急に連れ出されたので何も持ってきていない。虫除けスプレーもしていないから剥き出しの腕と足が蚊に刺されて痒い。
それに対して律は準備万端だ。
熱中症対策の水筒や塩飴、冷却シートまで用意している。そういえば弁当も持ってきていると言っていた。大きなリュックはそのせいだろう。そして何より気になるのは二本の竹刀袋だ。
昨日勝負したいような事を言っていたからそのためだろうか?
ただでさえ疲れているのに、さらに勝負まで持ち出されては敵わない。優斗は恐る恐る聞いてみる事にした。
「……宮前君、その竹刀袋は何?」
その言葉を聞いて律は頬を膨らませる。
「もー! 俺の事は律って呼んでって言ったでしょ!」
ぷんぷんと怒る律に、これでは話が進まないと判断した優斗は渋々折れた。「……じゃあ、律。その竹刀袋は?」
呼び方を変えると途端に笑顔になり饒舌になる律。
「うんうん。その方が嬉しいな。っと、
優斗の疑問はサラッと躱され、マシンガントークはさらに続く。
そんな状況に疲れ果てた頃、ようやく足塚に到着した。山の中に円形の広場があり、その中央に無数の札が貼られた岩が鎮座している。
ただそれだけの場所。
辺りは鬱蒼とした木々に遮られ薄暗く、ひんやりとしていた。
しかし、優斗はその異変にすぐ気付く。
ここには祖父が毎月定期的に祝詞を上げにくる。それに連れ立ってきていた優斗はこの場所を熟知していた。――なんだ、この寒さ。
今は夏の真っ昼間だというのに、息が白くなるほどの冷気に満ちていたのだ。日照りの中を歩いてきて火照っていた体は急速に熱を奪われていく。それなのに羽虫が飛んでいる違和感。
優斗の周りをぶんぶんと飛び回り、時に食いつくそれを手で払い除けながら寒さに体を
そんな中でも元気なのが律だった。
「はは、やっぱり見えてるんだね。うん、一安心かな」
意味の分からない事を言って辺りを見回す。
「ん〜、なんかヤバい感じ? 保険持ってきといて良かった」
そう言いながらリュックを下ろすと竹刀袋を手にする。
「はい、こっちは君のね」
いつもと変わらぬ調子で竹刀袋を投げて寄越す。思わず受け取るとずしりと重かった。
「まさか……真剣!?」
驚愕の声に律はしてやったりと笑う。
「そうだよ〜。君、剣術できるんだよね。真剣も扱えるって聞いたけど大丈夫?」
首を傾げ問いかけながらも、自身の刀を袋から取り出す。それは刃長が百五十センチはあろうかという大太刀だった。
しかし、大太刀はその刀身の長さからも分かる通り扱いも難しい。いくら律の身長が高くても抜けるのかさえ怪しかった。 だが、当の律は鼻歌まじりだ。ベルトに刀を佩くとリュックから一枚の札を取り出し、すたすたと岩に近づいていく。「はいはい、見てないで。何が来るか分からないよ。構えて」
優斗の頭の中は疑問符ばかりだったが、この非日常的な空間に、本能的な危機感を覚え言われた通り竹刀袋から刀を取り出す。
そこに現れたのは真紅の鞘に、龍が象られた鍔の太刀だった。
その後の二時間は何事も無く過ぎていく。ただ新幹線に揺られているだけなのだから当たり前ではあるが。 それでも律の口が閉じられる事は無く、一方的に喋り続けていた。優斗は小説を読みながらたまに相槌を打つくらいだ。 その間もずっと手は繋がれたままで、律が硬いと評判のアイスクリームと格闘している時でさえ離そうとしなかった。見かねた優斗が声をかける。「おい、このままじゃ食べにくいだろ。手ぇ離せよ。僕も本が読みにくい」 しかし、律は泣きそうな顔で駄々を捏ねた。「やだやだやだ! 繋いでるの! 離しちゃやだ!」 デカい図体をしてグズる律は子供そのもので。同じ十五歳だというのにあまりに幼い。かと思えば、性急に事に及ぼうとする。そのチグハグさが優斗には危なっかしく思えた。そこが律の魅力だと言われてしまえばそうなのだが、実際に襲われた身としてはたまったもんではない。 ――でも。 と、優斗は考える。 これは死が近いがための弊害なのではないかと。律自身、何度も死に目に遭ったと言っていた。いつ死ぬともしれない日々の中で、その一日を悔いなく終えるために欲に忠実に生きる。まるで壊れた心を繋ぎ止める、か細い糸。 そう、この手のように。 繋いだままの手をじっと見る。 優斗だってまだ子供だ。他人の心の内など分かるはずもない。それでも、この繋がれた手だけは離してはいけない気がした。 そう思えば自然と手に力が入りきつく握りしめる。それに律は不思議そうな顔をして首を傾げた。「優斗? どうしたの? やっぱりお母さん達と離れて寂しい?」 眉を垂れて覗き込んでくる律の鳶色の瞳を見つめ、優斗はゆっくりと首を振る。「いや、違うよ。寂しいのはお前の方だろ。安心しろ。この手は離さないから」 そう言って更に強く握れば、律はキョトンとした後みるみる内に表情が輝く。 そして優斗の頬に口付け、チュッとリップ音がなった。 今度は優斗が呆ける番だ。急な事に呆然と頬を撫でる。「優斗大好き」 律は
それから律は無理やり攻め寄る事は無くなった。 ただ、やたらと触れたがる。 時に腕に抱きつき、時に肩を組む。身長差がかなりあるから邪魔くさい事この上ない。新幹線に乗り換えた今も、指定席でピッタリと寄り添って手を握ったままだ。景色が良いからと窓際の席に座らされたが、逃がさないためと言われた方が納得できる。 優斗も襲われるよりはマシかと享受していた。 その間にも律はずっと喋り続けている。リビングの家具についてや、使っているシャンプーにボディソープ、果てには下着の事まで。律はとことん優斗に合わせるつもりの様だ。 それもおかしな方向に。「優斗はどんな下着が好み? 紐パンとかどうかな。色はやっぱり白? 今度買いに行かなきゃ」 鼻歌を歌いながら、上機嫌な律に優斗はげんなりとしていた。――どうかなってなんだよ。買いに行くって、自分で穿くつもりか? 僕にどうしろと……。 優斗だって、男性同士の恋愛がある事は知っている。それを非難する気も、差別する気も無い。しかし、それが自分に向けられるとしたら話は別だ。優斗は異性愛者であり、律相手にどうこうとは考えられない。まだ得体の知れない部分の方が多いが、友人と呼べる存在だとは思う。それ以上でも以下でもないのだ。 だが律はその気らしい。相手は自分より体格も、力も上の律なのだから抵抗するのは難しいだろう。現についさっき危機に陥ったのだ。あの場には小路がいたから難を逃れたが、宿舎で二人っきりになった場合、優斗は逃げ切る自信は無かった。 だからといって、黙ってやられるつもりも無い。いざとなったら共切にものを言わせてでも、操は守る気でいた。右肩に立て掛けたもう一つの相棒を握りしめる。 共切は意外な事に、何のお咎めも無しに車内へ持ち込めた。竹刀袋に入れているとはいえ真剣だ。優斗は内心ヒヤヒヤしながら周囲の視線を気にしつつも、平静を装い車窓を眺める。 あと約二時間で京都に着く。そこからはまた車に乗り換えての移動だ。ちらと横を見れば、未だに律があれこれと喋っている。その横顔は楽しそうで、仕事の事さえ無ければ何気ない日常なのに。
それは、有り体に言ってしまえば貞操の危機。 優斗にその気は無い。至ってノーマルだ。しかし、律は性別など気にもかけないのか優斗に執着している。舐めるような目で見られて鳥肌が立つ時さえあった。きっと優斗が女でも同じように接するのだろう。その場合は更にやばい事になりそうだが。 それなのに同じ部屋だなんて。 寝室は別でも全然安心できなかった。「今からでも別の部屋にできないんですか!?」 それに応えたのは小路だ。「無理です。既に手続きは終わっていますし、部屋に空きもありません。宮前君は家事も一通りできますし、小堺君にも利はあるのではないでしょうか」 その言葉に気を良くした律が口を挟む。「そうだよ~。俺良いお嫁さんになるよ? 優斗になら全力で尽くしちゃう! 優斗は何が好きかな? お肉? お魚? 俺、優斗が喜んでくれるならどんな料理でも頑張るからね! 洗濯も掃除も任せてよ!」 そう言って胸を叩く律。 ずいと近付く顔に優斗は思いっきり引いた。「嫁ってなんだよ!? 僕は男だぞ! お前も男! そこの所を間違えるな!」 言いようの無い恐怖に引き攣りながら喚く優斗にも律は何処吹く風。にこやかに笑いながら爆弾を投下する。「ええ~。そんなの関係ないよ。今は多様性の時代なんだから。恋愛の形も自由! 俺は優斗の事大好きだよ? もう食べちゃいたいくらいに」 その顔は恍惚に浸っている。頬を染め瞳を潤ませて、律の手が優斗の太腿を撫でる。 優斗の背中がぞくりと粟立ち、息を呑んだ。狭い車内では逃げ場も無い。助けを求めるように声を張り上げた。「あ、東さん!」 その様子に東はやれやれと面倒臭いのを隠そうともせず、やる気がなさそうに律を諌める。「律。ここではやめてくれや。この車レンタルなんだしよ。汚したら追加料金取られるだろうが。そういう事は家でやれ。それにあんまりがっつくと嫌われちまうぞ? 焦らずじっくりと攻めるのが定石だ」 生々しい表現をする東にこいつもやっぱり同類かと優斗は危機感を募らせる。 そんな優斗を他所に昂る衝動を止められた律はブーたれて東に辛辣な言葉を投げかけた。「さすが片っ端から女の子にちょっかいかけて振られまくってる人の言葉は重みが違うね。でも俺はそんな失敗しないし。ね、優斗。俺達死ぬまで一緒
黒塗りの車は少年達を乗せて、山道を走る。 カーオーディオから心地よいジャズが流れ、郷愁を誘った。 この町を離れる事に後悔はしていないが、不安は消せない。優斗は人ならざる道を歩もうとしているのだから。 窓から見る景色は、既に見知らぬ物に変わっていた。買い物は隣町のショッピングセンターに行っていたが、山を越えるのは中学校の修学旅行以来の事だ。初めは生い茂る森と曲がりくねった道を物珍しげに見ていたが、変わり映えしない風景に早くも飽きてきていた。新幹線の乗り入れる最寄りの町までは、まだ遠い。 優斗はちらりと視線を移す。 ハンドルを握るのは四十前半の男性、陰陽寮技術部の所属で律の父親役をやっていた人物だ。 名を東公太。 律には多少劣るが高い身長に白髪混じりの短髪と丸眼鏡が印象的で、祖父達に対する物腰は柔らかく、本当に律と同じ陰陽寮所属なのかと疑ってしまった。しかし、普段の口調は粗野で共切の話になると途端に目の色を変え、早口で捲し立てる様は狂気じみていて、やはりどこか浮世離れしている。 その隣に座る女性も同じ印象だ。 こちらは情報部所属の小路美津代。 母親役をやっていた女性で、長い髪をポニーテールにして背に流し、一重で切れ長の目はキツいが和風美女とも言える。東とは違い、無口で無駄口を叩かない事務的な喋り方をする人物だ。それでも似通った印象を持つのはやはり目つきのせいだろう。表情はにこやかでも目が笑っておらず胸の内を覗かれているようで落ち着かない。 そんな二人との出会いは表向きには何の問題もなく終わった。神社に迎えにきた三人が母と祖父に挨拶する間も特に何も。 優斗は少しだけ、母や祖父が何か言ってくれるのではないかと期待していた。優斗が父の元へ行くと言った時は黙って送り出してくれたが、孫を、息子を危険な目に巻き込んだのだ。文句のひとつも言ってくれるかと、そんな期待を。 しかし、そんな優斗の気持ちとは裏腹に母も、祖父もただ頭を下げるだけだった。 優斗だって、自分で決めて何も言わずに出てきたのだ。それなのに勝手な期待を持つのは筋違いだろうと、己を叱責する。車に乗り込む間際に母が抱きしめてくれた。それだけでも報われるというものだ。 優斗は小さく息を漏らすと、再び窓の外へ意識を向ける。す
「行ってしまいましたね」 ぽつりと呟くのは母、佐江だ。 神社の鳥居の下で哉斗と並んで山を眺めている。その視線の先には息子の影を見ながら。 哉斗もじっと見据えたまま口を開く。「佐江さん。すまない。玲斗に続き優斗まで」 その言葉に佐江はゆっくりと首を振る。「いいえ。私も共咲に繋がる者です。玲斗さんと結婚した時から覚悟はしていましたから。お義父さんが気に病む必要はありませんよ」 気丈に振る舞う佐江の言葉に哉斗は自身の不甲斐なさを痛感する。 二人は律の訪れに関して玲斗から知らせを貰っていた。化け物退治についても同様に。それでも敢えて優斗には告げずにいたのだ。 己の目で見て、決めてほしかったから。 玲斗が寄越したあの律という少年から事情は聞いていたかもしれないが、優斗は自分達を責める事は無かった。 優しい子だ。 心配をかけたくなかったのかもしれない。 特に佐江には。 旅立つ際にもただ父の所に行くとだけ言い、理由は話そうとせずただ哉斗をじっと見つめていた。 悍ましい化け物との戦いに理不尽にも巻き込まれたというのに。幼さの残る孫が一人で立ち向かおうとするその姿は痛ましく、これから歩む道を思えば胸が苦しい。 でも。 その隣には初対面の時とは顔つきの違う少年が寄り添い、その眼差しに優斗を護るという強い意志が感じられた。 二人共にまだたった十五の少年だ。 遊びたい盛りだろうに、その背には幾億の命が背負われている。 だが、あの二人なら大丈夫。 お互いを支え合い生き抜くだろう。 そう思わせる何かがあった。 滲む涙を拭う佐江の肩を叩き、哉斗は孫の背中を見送った。
その日、三人の男子生徒が姿を消した。 一人は行方不明に、もう二人は引っ越したと言う。 しかも引っ越した一人は、つい最近転校してきたばかりだった。それが二人揃って引越しとは、どうした事だろう。 誰かは、行方不明になった少年を二人が殺したのだと言った。 誰かは、許されざる恋に二人で手を取り合って逃げたのだと言った。 様々な憶測が飛び交う中で、一年二組の教室は騒然としたが、それも日が経つに連れて過去の話題となっていくだろう。それは人の世の常と言える。 そんな喧騒から離れ、田畑が広がる町を見下ろす高台に、ふたつの影が並んで立っていた。「お母さん達には言って来たの?」 長身の影が問いかける。「あぁ、父さんの所に行くって言ったら分かったって」 小柄な影が、それに応えた。 長身の影が『そっか』と呟くと、ふたつの影は側で待つ黒塗りの車に乗り込む。 次にいつ帰ってこられるか、それは分からない。 もしかしたら、二度と帰る事がないかもしれない町並みを眺めながら、車は遠ざかっていった。 今ここに、一人の鬼切りが産声を上げた。 それはまだ小さな決意。 今はただ友のため、刀を握る。 闇の道を歩き始めた少年は、どこへ向かうのか。 その目は何を見るのか。 まだ少年は知らない。